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 当該のページは、 0004139番目 (2014/04/24~) 更新日(2014/05/02) 『 kiho-P174
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2014年、復活祭、イースター、霊性、レジリエンス、(Resilience)、社会、平和、 

参考:荒井献、太田道子、佐藤研、上村静、本田哲郎、

 

 

『カトリック相模原教会』

2014年 復活祭(イースター) ミサ (司祭 浜崎眞実神父)

   (a Christian celebration of the Resurrection of Christ)

   2014(H26)/04/20 「復活の主日」 :於 教会、御聖堂、信徒会館


 

 Fig.01 「聖書と典礼」(「オリエンス宗教研究所」、2014年04月20日、より 引用)

 

当日ほんの少し遅れた、輝峰(きほう)のときにはこの小冊子がすでになくなっていました。(残念)。かろうじてミサに間に合った女房殿からこの小冊子を借りました。

上記パンフレット。『ヨハネによる福音書』 ヨハネ20:1~9。 輝峰の持っている聖書のひとつ、 『聖書-旧約聖書続編つき-新共同訳-引照つき-』 日本聖書協会、(輝峰の推奨、『書籍』 の中の辞書(No.130)参照) から引用。 (新)p.209.。ヨハネ20:9。 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという「聖書の言葉」を、二人はまだ理解していなかったのである。」。このなかの、註9l。「聖書のことば」、は、同書、『詩編』16:10。「あなたはわたしの魂(たましい)を陰府(よみ)に渡すことなくあなたの慈(いつく)しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず」。

 

更新履歴:2014/05/01 復活祭の教皇フランシスコのことば、(最下段)、追記。

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(「輝峰(きほう)のホームページ」の中で、フィルムではない、デジカメで撮影した「写真」には概略、撮影データ(撮影カメラ機種や、撮影日時などの Exif 情報)が、無料のソフト、「Exif Reader 」、「 F6 Exif 」 などで 読み取れるように配慮されてます。) 持参機材。 本日は、ニコンのデジ一眼 Df + 28-105mm / F 3.5-4.5 D のみ。

 

fig.01 満員。最後部の壁にくっついている椅子の席まで。廊下に立つひとも。

 

fig.02  浜崎眞実神父。 (カトリック相模原教会 司祭)

 

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fig.06 そろっと、中央の列の最後部に移動して、しゃがんで撮影。

 

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fig.10 総務連絡事項

 

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fig.12 とても、上品で、綺麗ですねえ。こころがなごみます。

 

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ミサ終了後の、パーティ の模様です。お御堂の前の信徒会館。盛大ですね。

 

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fig.16 一品もちより。

 

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fig.18 信徒会館 厨房

 

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fig.36 浜崎眞実神父

 

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fig.38 中央右、浜崎眞実神父

 

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fig.40 左:午前イースターのミサ時、最後部壁前に立っていた私に席をゆずってくださいました。

右:御御堂の前に立派なきれいな花を生けてくださっている姿をときどき見ました。

 

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イースター、パーティ、終了後

 

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帰路、教会近くの鹿沼公園にて。

 

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復活祭にちなんで、浜崎眞実神父のミサでのお話から、キリスト教徒(カトリック教徒)のひとりである女房殿と、仏教徒の一人である輝峰(きほう)とが、お互いに理解しあえるように、こういうことではないかしらと、話し合って感じた二人の共通の個人的感想です。私どもの、神学(ローマ法王庁、教団教義)の理解と、聖書学(荒井献、太田道子、佐藤研、上村静、本田哲郎、さんなどの著書( 『書籍』 No.173、No.172、No.171-170、No.169、No.168、No.160、No.159、No.158、No.147、No.146、No.145、No.144、を読んでの勉強)の理解に、思い違いがあるのかもしれませんが。

 

●本日の復活祭ミサで福音書でのイエスの、死からの復活をどう考えるか:神父のお話。

イエスの死からの復活とは、人(イエス)が物理的に生き返るということではなく、イエスは、死の力に閉じ込められることなく、今のときも、未来のときも、「霊性」 として用(はたら)いている。

「現在の社会」は、いろいろな困難と苦痛にさいなまれているひとたちが身の回りに大勢いる。

一方、ひとと言うものは、「困難な状況にもかかわらず、柳の枝のようにしなやかに適応して生き延びる、自然治癒力」である、 「レジリエンス」 というものを自己の身体に内包している。

信仰により、神や、イエスからの「霊性」を感じることを通じて、自らの本来内包している、「レジリエンス」 を呼び起こし、近くに居る、貧しさや、抑圧や、差別など受けて苦しんでいるひとたちに寄り添い、環境や立場が違っても、互いに理解し尊重しあえる社会、真の世界の平和になっていくことに、たえず努力していきなさいと、聖書は示唆していると理解できる。と。

 

輝峰の理解:つまり、イエスの死からの「復活」とは、物理的なイエスの肉体の復活ということにとらわれることなく、神と子(イエス)とからの聖霊(「霊性」)を感じることをつうじて、われわれの精神的 「レジリエンス」 (Resilience)  を呼び起こし、ひとの痛みや苦しみに、我がことの様に共に苦しむ感性、を大切にして、貧しさや、抑圧や、差別など、無関心や、放置をしている、現状の、見せかけや、偽(いつわ)りの現在の平和に耐えて甘んじることなく、社会の真の平和が実現できるよう自分の立場立場で、自分なりに努力して生きていきなさいということを、聖書は意味していると考えられる、と神父は仰っているのかしらと。

 

「レジリエンス」(Resilience) とは : 複数の辞書から。

物理学では、ストレス(Stress)は外力による歪み、それに対して、レジリエンス(Resilience)はその外力による歪みを跳ね返す力のこと。レジリエンスは精神医学では自発的治癒力のこと。レジリエンスとは、こころに弾力性を持つがゆえに、風雨に耐える柳の枝のような芯の強さ、自然治癒力を本来身に着けていることを示す。「困難な状況にもかかわらず、しなやかに適応して生き延びる力」という心理学的な意味。

 

「霊性」とは: 下記(荒井献著)の書籍から。

そのまま引用:「一般に霊性とは、キリスト教では神への祈りや瞑想、仏教では坐禅など、身体技法を含む方法によって深まる、神と人との交わりを指すと言っていいと思います」。

出典: 『3.11以後のキリスト教』 荒井献、本田哲郎、高橋哲哉、著。ぷねうま舎、2013/3発行。荒井献の回答箇所。 p.89a10-11。 cf :輝峰推奨の 『書籍』(No.172-p.89。このほかに、No.168-p.04。)。

 

輝峰理解: キリスト教でいう、「霊性」とは、仏教で言う、「感応道交」(かんのうどうこう) 、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍 : 『書籍』(No.55の本の-p.190a24):、『妙法蓮華經文句』(法華文句)、智顗(ちぎ)著、p.2a28 にあたるのでは、と輝峰は思います。

原典出拠:「感応道交」:この語句を使用している智顗著、『法華文句』よりも、意味を説明している智顗著、『法華玄義』の方が内容的に詳しい:智顗(ちぎ)著、『妙法蓮華經玄義』 (No. 1716) in Vol. 33(略称『法華玄義』):「迹門」:「第六」「感応妙」p.746c12。その中の、「機」について。: 「機」に三義あり。一には、「微」、二には「関」、三には「宜」。なりと。(註1)⇒ このページの最下段に説明を記述。

 

●神父の、「現在の社会」 とは: (内)のことばは輝峰が補完しての理解。

いまの日本の政治の方向(個人的解釈:第九条などの憲法改正論、集団的自衛権のそのときの内閣判断による拡大解釈、政府要人のヤスクニ神社参拝、消費税増税、法人税減税、低所得者層よりも企業の景気回復を優先させるなど、の方向)は、(日本の低所得者層や)、周辺の国々、特に近隣のアジアと共生する方向ではなく、摩擦を起こし、世界的にみて孤立化の方向に向って行っているような状況に感じられます。

 

●ご参考:「こころの貧しいひとは幸いである。」(新共同訳) 『マタイ福音書』 5章3-10節:

上記 『3.11以後のキリスト教』 p.57_a07 に、本田哲郎司祭は、福音書のこの共同訳では誤解されうる。聖書のこの箇所の、「こころ」とは、原語では「霊」という意味です。として、ご自身の本田哲郎訳を記載しています。 上記著書からそのまま引用(ただし、(内)の文言は輝峰の追加): 

「神様と(霊を通じて)向き合う存在であるこのひとたち(イエスの前に集まってきているひとたち)が、(イエスの時代のローマ皇帝や、現地のヘロデ王末裔などの政治的権力者や、民衆を搾取している神殿勢力、大祭司、祭司長や、長老、ユダヤ人の富裕層や、旧弊な考え方の持ち主、などの)人々によってしいたげられて貧しくされている。

(つまり、「こころの貧しいひと」とは、「霊性」によって神と通じ合え、神とコミュニケートができて、かつ、まわりの人々から虐げられて、「貧しい生活を余儀なくされている」、(今、イエスの目の前に集まってきている)、ひとびと、のこと)。

(イエスの前の)このひとたちこそ神が求めている、神からの救いの対象となるひとびと、これらのひとびとと、自分(イエス)の思いとして共有、共感している。このひとたちこそ、無条件に「天の国」の住人なのだ(幸いなひとびとなのだ)、という宣言です」。と。

輝峰:文の(内)の一部は、『イエスとその時代』 荒井献著、輝峰の『書籍』(No.173-p.25)を参照し補完。

 

●ご参考:「平和ではなく剣を」(新共同訳) 『マタイ福音書』 10章34-35節:

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。私は敵対させるためにきたからである」。

 

本田哲郎訳: 『3.11以後のキリスト教』 p.70_a08。のなかの本文からそのまま、下記に転写。

「敵対をおそれず」:「イエスは、世間が「平和」と呼んでいる偽りの平和をこわし、分裂と敵対の現実をあらわにさせ、ほんものの平和を実現させることを求めました。だからこそ、世の貧しく小さくされている仲間たちの立ち上がりを呼びかけたのでした。

真の平和を実現させるためには、見せかけだけの偽(いつわ)りの平和の実態を、まず明らかにすることが必要だと、イエスはいうのです。世の貧しく小さくされている人たちの忍従と沈黙によって維持されている「平穏無事」は、イエスにとって、平和実現のさまたげ以外の何ものでもなかったということです。

 

輝峰:すごいですね。イエスは。

 

 

●輝峰と女房殿の理解:

今日のミサの神父のお話で、理解するのが難しかったですが、輝峰、女房殿との理解では、

「イエスの復活」とは現実的なイエスの肉体の生き返りに執着するのではなく、⇒神と子(イエス)からくる聖霊(「霊性」)を感じ、それを通じて ⇒ 「レジリエンス」 (苦痛を跳ね返すバネのチカラ)を起こし ⇒ 痛みで苦しんでいる目の前のひとびとの、その痛みを共感し、共有し、考えの違ういろいろな人々ともよく話し合い、理解し合って、困難な周りの環境や、状況にも屈せず、どんな風雨にも耐えうる柳の枝のような芯の強さをもって、自分たちの意志を表わし、小さくても静かな行動をいろいろ起こして、貧しきものが、忍従と沈黙を余儀なくされることによって保たれている、 「偽りの平和」 ではなく、こころ穏やかな、「真の平和」 の社会の実現に向かって、努力していかねばならないですね。と。

 

輝峰も本当にそうだと感じました。しかし、一緒にミサにあずかったみなさまと同じ感想だったかどうかわかりません。

神父のお話で私たち夫婦の理解が間違っていたらごめんなさい。

 

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●本日の復活祭の教皇フランシスコのことばです。(輝峰 2014.05.01 追記)

ご参考:教皇フランシスコの 2014年4月20日の復活祭メッセージ(ローマと全世界へ) (抜粋)

  (カトリック中央協議会)

  http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0108.htm

****↓引用 ************

だからわたしたちはすべての人に告げるのです。「来て、見なさい」 (マタイ 28: 5-6)。

弱さと罪と死を特徴とするあらゆる人間の状況において、福音は単なることばではありません。

それは無償の忠実な愛のあかしです。それは自分から出て、他者と出会いに行き、人生に傷ついた人々に寄り添い、必要なものに事欠く人々と分かち合い、病者、高齢者、疎外された人々のそばにとどまることです……。

「来て、見なさい」。愛は力強く、いのちを与え、荒れ野で希望を花開かせます。

****↑引用 ************

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●註釈:(註1): 仏教ではキリスト教の「霊性」に近いことばは: 「感応道交」(かんのうどうこう):日本語読み、「感応の道、交(まじ)わる」。 「仏」(ぶつ)と「機」(き)。:『法華玄義』、智顗(ちぎ)著: 「機」は「衆生」(しゅじょう):生きとし生けるもの:ひと、のこと。「機」に三義あり。一には、「微」、二には「関」、三には「宜」。なりと。:  1)「微」(び):「かすか」、「きざし」。仏の導きにより「菩提心」(ぼだいしん:悟りを求め仏道を行なおうとするこころ)を発動する「かすかなきざし」を内に持っていつことをいう。  2)「関」(かん):「関わる」、「あずかる」。「衆生」は仏の説法の対象として深い「かかわり」があり、救いに「あずかる」べきもの。  3)「宜」(ぎ):「よろしく相い応ずる」。被救済者である仏と相い応ずる関係にあることを言う。出典:輝峰の『書籍』(No.11)、『浄土真宗聖典 七祖篇 注釈版』(pp.1393a17-b14)。

 

 

●閑話:

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今、輝峰と女房殿との会話で、気になっていることば: (20140424-2224 記。)

 

・与えられてあるいのち :荒井献

・生かされて在るいのち :荒井献、上村静

・(絶対的な神ではなく)「縁起の法」(空(くう)) により、生かされてあるいのち :輝峰

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