築地本願寺新報 2000年7月号
築地本願寺 新報 2000年7月号 page-3(上の表紙の次のページ)
法味春秋
平等の慈悲
住職 高橋 審也
われは万人の友である。
万人の 仲間である。
一切の生きとし生けるものの同情者である。
慈しみの 心を修めて、つねに無傷害である。
『テーラガーター』六四八
この文は、仏陀の直弟子の一人のことばとして伝えられられているも
のですが、この中に、仏陀のお心、精神というものが、
端的に伝えられているといってもよいと思います。
「平等」という語は仏教において覚りの境涯の内容を表わすことばで、
本来は自己と他者が平等であり、いささかの優劣の関係もないと知ることで、
そこから「平等の慈悲」も生じて来ることになります。
もう、大分以前に子供の幼稚園のPTAの役をさせていただいたことがあるのですが、
そのときに、どんな園児達もみんな、可愛くて元気で、とてもよい子供達に見えました。
こ
の子達が成長していったら、みな、どんなによい少年や少女になっていくだろうかと思ったほどでした。
しかし、残念ながら現実には、その頃の幼稚園児の年代の子が成長して、
その年代の少年達によつて、現在の異常な事件が引き起こされているのです。
私達の社会の一般的な現実は絶えず他の家族や
人々との自分との比較の上に成り立っており、それは学校
の成績の優劣であったり、その他いろいろな意味での能力の優劣であったりして、
その結果、優越感や劣等感にさいなまれて、憎しみとか怒り
とかあるいはその結果として暴力という形をとって噴出してきているのではないでしょうか。
仏の眼より見れば、すべてのものはあまねく平等であり、
すべての子供に仏によつて等しく慈悲がそそがれているのだということを、
また、すべての子供達が仏の願いにつつまれているのだということを、
世の大人たちがきちんと受けとめて行くことが出来るならば、現在の索漠とした状況も、
よき方向に変えて行けるのではないかと思うのです。
弥陀如来は法蔵比丘の昔、平等 の慈悲に催されて、あまねく一切を
摂せんがために造像起塔等をもって本願とし給わず、
ただ称名念 仏一行をもって本願とし給えるなり。
『選択本願念仏集』
(武蔵野女子大学助教授・東京仏教学院講師)
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